胃がんの母を娘が看取った語り
ホームケアのクリニックにサポートして貰った。
二〇〇七年の夏、身体の調子が悪かった母はようやく病院に行き、胃がんの診察を受けるが、その時点でステージ四だった。病院が嫌いでなかなか行こうとしなかった。しかしやせてきて、甘いものも食べなくなり、変だというので受診した。
まずは入院して抗がん剤、手術、抗がん剤、そのあとは外来で抗がん剤をしていた。副作用が強くなってきたこともあり、母と父私の三人で話し合い、もう抗がん剤はやらなくていいと決めた。兄には電話で伝えたが最終決定はこちらにまかせるということになり、治療はやらない、在宅で看取ると皆で決定した。病院からの提案ではなかった。その時の母の希望は、死ぬのはわかっている、しかし最期を病院とは関係なく家で過ごしたい、というものだった。ただ在宅の看取りをサポートしてくれる病院に診てもらって相談にいかないと、最後に困ることになることを説明し、クリニックの紹介を受けた。
自宅のある区からは遠かったが、自分が介護休業をとることを伝え、引き受けてもらった。当時は、介護保険の適応を受けると、介護ベッド等のレンタルが安くなることすら知らなかった。自分も医療関係者であるが、医療と介護の情報の共有化がほとんどなかったので、誰も介護に関しては職場の人たちも教えてくれなかった。クリニックからすぐ手続きをするように言われ、初めて介護保険に関する手続きをした。私のような看護師でさえそうなので、一般の人はもっとわかっていないのではないだろうか。
その頃母はトイレ以外はあまり動かない状態だったが、トイレは一人で行くことができていた。介護度は三となった。保険の適用を受け、週三回看護師、週一回医師が訪問してくれた。介護士さんは最後まで入らなかった。私は結局年休を使って、半日で帰ったり、を繰り返し、いよいよとなった三月四日からは1か月の介護休暇をとった。父はパートで仕事をしていたが、この在宅療養が始まると退職をして、介護専従となってくれたので私は仕事を続けることが出来た。私がいない時でも、一人で介護をしていたが、不安は感じていなかったようだ。看取りはリビングに面した和室で行った。トイレに行きたくなると連れて行くといった状態だったが、テレビも見ることが出来、声が聞こえやすいということで、そこに寝かせていた。介護をする側がそのほうが楽で、すぐ様子をのぞくことが出来たからである。介護ベットの位置に関しては、レンタルしてくれた業者からの助言はなく、自然に野球を見るのが好きなのでこの場所になった。余命は半年から一年と予想したが、父はもっと長く持つと考えていたようだ。在宅で自分が看護することで死を引き伸ばせると思っていた。しかし母に言われて、お葬式の段取り等は用意をしていた。
最期の日は、私が職業柄わかったので、兄夫婦、私たち家族、春休みで帰省していた息子たち皆で周りを囲み、手を握ったり、足をさすったりしながら見送った。本当に良い幸せな看取りとなった。
現在父は高齢者住宅で暮らしており私は一人暮らしである。父は自分が在宅での看取りとなった場合、今度は私が仕事を辞めざるを得ないことを懸念して高齢者住宅に引越すと言い出した。私もそれを止めなかった。自分が死を迎える時のことはまだわからない。
介護語り、看取り語りの影法師 (背景となる知識を参考図書から説明します)
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